「君の名は。」鑑賞2016年10月03日 12:51

 話題の「君の名は。」を鑑賞。

 新海誠は、SFマガジン2011年6月号での特集(この号にはパオロ・ガチパルピ特集も組まれていて、かなりインパクトのある号だった)の頃から気になっているクリエイターだったが、劇場で見たのは今回が初めてだ。

 もっとも、大成建設のCMは有名だろうから、すでにその名を知らない層にも彼の作品は届いていたはずだ。あの美しい背景と精緻なキャラクター、そして短時間で見事にまとまるストーリーの完成度は何度見ても素晴らしかった。そして、アニメーションのインパクトの後、どの企業のCMかが覚えられないという点でも印象深かった。

 男女の入れ替わりは、古くは「とりかえばや物語」、大林信彦の「転校生」(これも原作が先行で存在している)などを彷彿とさせる。主人公二人の、もどかしいほどのスレ違いは、往年のメロドラマ「君の名は」の本歌取りそのものだ。美しい風景とキャラクターは、アニメーションである以上、極限まで順化され、記号化されているし、ストーリー自体も王道もの。

 そう、完全に様式として完成され、だからこそ純粋な普遍性を持ちえているのではないか。そんな思いにとらわれた。

 逆に本作で価値を落としたのは文字。そして文字に立脚した記憶。この二つは全編を通じて儚く消え去るものとして扱われている。その代わりに残るのは、身体感覚に立脚した記憶や思い。そのシンボルが神事であり、組紐となっている。そして、現代社会はこれらの価値を認めず、より身体感覚に近い「噛み酒」に至っては「気持ち悪い」と切り捨てられる始末。しかし最終的に主人公二人を救うのは、組紐であり、噛み酒であり、その身体に刻み込んだ記憶に立脚した手描きの風景画、入れ替わった時の互いの身体の感覚。

 身体で感じ、体に刻み込んだ記憶が、様式と組み合った時、普遍的な名作が生まれたといえよう。これはまるで能・狂言・歌舞伎のようだ。

 この作品は実写化できないだろう。実写では(特に演技者に)無用な夾雑物が多すぎる。それらをそぎ落とし、普遍性を得るには、アニメーションが最適なのだろう。

 文字と言葉を埋め尽くすことで万華鏡的な世界を生み、観客を圧倒する手法、あくまで普遍性を求めてストイックに夾雑物を切り捨てたストイックな手法、この国のサブカルチャーは、この両極端を見事に完成度の高い作品として生み出し、この夏ほぼ同時に提示できた。その基本には営々と積み重ねられたこの国の庶民の文化と伝統が脈打っている。