「血を吸う」シリーズを観る2021年05月23日 10:29

 「血を吸う」シリーズ3作を全て観る。日本の怪奇映画のルーツの一つか。「怪奇大作戦」のカラーも匂うのは時代性もあるのかもしれな。

 第1作は「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」、1970年の作品。中村敦夫、松尾嘉代、中尾彬といった、今ならアクが強いか個性が際立つ芸能界の重鎮なのだが、当時はまだ若々しい。今なら中村敦夫はこんな役など当てられることもなさそう。松尾嘉代もセクシーなオバサマではなく、(当時としては当然だが)かなり短いミニスカートで可愛らしい。中尾彬もちょっと目端の聞くやんちゃ青年といった感じか。

 若々しく活動的な松尾嘉代に対して、まさに人形のように整って美しい死美人の小林夕岐子は好対照。陰と陽の美女二人、そして謎の中年女性が使用人と二人で住む古びて没落し始めている洋館。戦前ミステリの雰囲気も漂う。

 この作品は他の2作と違い、シリアルキラーものである。戸籍調査や大ネタには現代ではありえない描写もあるが、そこは目をつぶっておおらかに見たほうがいいだろう。というより、今から50年も前は、そういうことが現実に行われ、またまことしやかに受け止められていたという「恐ろしさ」も感じる。

 第2作は「呪いの館 血を吸う眼」、1971年作品。ここからは和製吸血鬼が登場する。岸田森の当たり役となった。キリスト教が生活や文化に浸透しきっていないこの国で、十字架やキリスト教的神を吸血鬼の弱点に設定しないのは良識だろう。十字架には宗教に根付いた意味があり、この国の多くの人はそれを体感しないのだから、ただのアイテムと堕すのは失礼ともいえる。

 今回のヒロインはおっとりした古典的女性。ヒロインの妹の方が現代的で活発だが、犠牲となるのは妹の方。そのギャップが怖い(リアルでもこの妹役の女優、後に作詞家は非業の死を遂げている)。

 一応吸血鬼という海外の存在が日本に来たことに関する理由付けもなされている。リアリティは時代なりなので、ツッコミ無用。

 第3作は「血を吸う薔薇」、1974年作品。今回も吸血鬼は岸田森。舞台は女子校の寄宿舎。この女子校というのが実はピンとこない。主人公(黒沢年雄)が教師として赴任し、教えているのがどうやら心理学(ロールシャッハテストの講義をしている)となると、女子大ということなのだろうか。そして今回は地元の医師として、ブレーン役で田中邦衛も登場する。助監督は小栗康平と、今から見れば豪華なメンバーだ。

 今回の岸田森は女子大?の学長。寄宿舎(大学も)近くの洋館に住み、最近事故で妻を失った。もちろん吸血鬼、餌食は寮の女子大生。学校は山奥の辺鄙なところで、ちょくちょく生徒が「蒸発」する。いまなら大問題だが、ツッコミ無用。当時は人間「蒸発」がちょっとした流行語でもあった。今回は3人娘(寄宿舎のルームメイト…この辺も時代性を感じる)で、今までにはあまりなかったお色気サービスもある(とはいえ、今のアニメのお色気サービス以下ではあるが…)

 びっくり箱ホラーではないが、じわじわ来る古典的な懐かしい怪奇映画だ。冒頭にも書いたが、TVの「怪奇大作戦」と似た空気がある。今の「世にも奇妙な物語」や、「トワイライトゾーン」に近いか。

 この作品の吸血鬼は大量増殖を目的としていない。ヨーロッパの吸血鬼がペストのアナロジーであったのに対し、この作品(1作目は吸血鬼ではないが)群での吸血鬼はどちらかといえば人の「業」を引きずっている。高度経済成長末期の「昭和元禄」と言われた時代では、病気より人のほうが怖いものだった。

 病気より人のほうが怖いのは今も同じだ。病気よりも金が動く、大昔の行事の名前を引きずったイベントのほうが優先され、感染リスクよりも客を集めて金を稼ぐほうが優先される。人の心を励ますなどと美辞麗句を連ねながら、その裏で予想される危機に対する責任など取る気はなさそうだ。イベントを実行することにしか責任を追わず、イベントによって派生する危機には知らんぷりをきめこむのだろう。吸血鬼よりたちが悪い。

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