「15時17分、パリ行き」を観る2023年01月10日 19:46

 「15時17分、パリ行き」を観る。2018年のアメリカ映画。監督はクリント・イーストウッド。

 2015年にフランスで発生した列車内銃乱射事件の実話を映画化したもの。主演の3人は実際に事件に遭遇した本人たちというので話題にもなった。

 冒頭の事件シーンから主人公3人の少年時代へカットアウトし、時系列に沿って事件の瞬間に戻る構成。主役3人は素人であって、その容貌も眼力も(そしておそらく台詞回しも)まったくドラマティックではない。むしろなんとなく居心地のわるいザラッとした感覚を与える。

 そして彼らの少年時代。ドロップアウトした問題児3人。そう、この3人は最初から社会で望ましいと思われているストーリーから外れている。その後も失敗、ドロップアウトと、実際に英雄とされ、レジオン・ドヌール勲章まで授与された人物に期待される人生とはおよそかけ離れている。

 少年時代の3人は別れ別れになるが、その後のお互いの連絡や生活も描かれない。ヨーロッパ旅行もぶつ切り状態。自撮り棒に取り付けたスマホのスナップが無造作に配置されるような展開。

 そう、これはありふれた英雄の挫折と栄光といったドラマを完全に否定した、刈り込みに刈り込んだスナップショットの連続のようなコラージュによる映画だ。英雄否定と言ってもいいかもしれない。語弊があるというなら、英雄の偶像化否定というべきか。

 当たり前のままならない人生を、当たり前に生きてきた3人が、当たり前に選択したバカンスで、身につけた能力で当たり前のように、たまたま遭遇した災難に対処した。他人がたまたまそれを称しただけ。この作品にドラマや感動を求めてはいけない。英雄的行動は人格の英雄化や偶像化の根拠にはならない。そういう突き放した視点が強く現れているように思える。まさに「普通の人の映画」だ。

 実話を元にした作品に、安易に感動を求めることの恐ろしさ、愚かさを観る側に突きつけてくるような作品と言える。かつてのヒーローとしての自分自身、ダーティハリーを完膚なきまでに叩き壊して見せたあの「グラン・トリノ」の延長線上にこの作品は位置しているように思える。「グラン・トリノ」よりはるかに俯瞰的に、攻撃的に。この作品が賛否両論となるのは当然だろう。観る側が求める安易なカタルシスも完全否定しているのだから。そういうものを求める観客や、さらに制作側、評論家側に向けても手厳しいイーストウッドだ。そう、白バイ警官であっても排他的な暴力を振るう相手には情け容赦なく鉛玉を打ち込むハリー・キャラハンのように。こういうダーティさ、好みだ。

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