「サウンド・オブ・ノイズ」を観る2018年05月04日 11:34

 スウェーデン・フランス合作映画「サウンド・オブ・ノイズ」を観る。

 なんとも不思議な映画だ。まず、音楽テロリストという発想がすごい。音楽大学を追われた、かなり過激な前衛音楽家が、相棒のドラマーと一緒に、ほかに5人のドラマーをスカウトして、街のインフラや銀行、はては人間の肉体までもを楽器にして演奏する。もちろん犯罪行為なので、警察が登場するわけだが、この事件を担当する刑事が音楽家一家(それもクラシックの)で唯一の音痴で、根っからの音楽嫌い。だが、冒頭で事故を起こしたワゴンから聞こえる機械音を時限爆弾と考えて遠巻きにしていた同僚をよそに、その音がメトロノームの音だと一瞬で判断できるほど、音には敏感。

 テロリストが楽器にしたものが立てる音が、この刑事にはまったく聞こえなくなる。そして現場にはつねにメトロノーム。これを手がかりに刑事は音楽テロリストを追っていくが…

 と、犯罪もののスタイルはしているが、けっしてシリアスでな雰囲気ではなく、ちょっと小粋な、なんとも不思議なテイスト。

 クラシックやそれにかかわるアカデミズム、スノビッシュで鼻持ちならないインテリもどきに対する痛烈な批判と嫌悪も伝わってくる。だが、それがいやらしくなりすぎず、ちょっとした毒でとどまっているところは品がいい。

 音楽家一族から外れた刑事と、アカデミズムから放逐されたテロリストの行き着く先には、奇想天外な音楽が待っている。ちょっといい映画。

Lee Morgan 「The Sidewinder」を聴く2018年05月05日 22:42

 Lee Morganの「The Sidewinder」を聴く。

 名盤の誉れ高いこのアルバムだが、何故かこれまで縁遠かったので、やっときちんと聴けたという感じだ。

 タイトル曲「The Sidewinder」はあまりに有名。リー・モーガンを知らなくても、ジャズを知らなくても、かなりの人が耳にしたことがあるだろう。この曲を聞くと、おしゃれでポップでちょっとサイケな60年台のイメージが沸き起こってくるのは私だけだろうか。1963年録音のアルバムなのだから当然と言えば当然だが、8ビートに乗って軽快に、華やかに、そしてかっこ良く進むこの曲は、60年台の魅力を過不足なく伝えているような気がする。

 他の曲も、いわゆるジャズと呼ばれる曲につきまとう脂臭さのようなものとは無縁で、華やかで艶のあるトランペットの音と、洗練された作曲で、耳あたりがよいものとなっている。ブルー・ノートレーベル最大のヒットとなったのも当然と言えば当然か。

 リーダーのリー・モーガンは、30代前半で愛人に射殺されてしまう。お決まりの麻薬と差別に苦しむ黒人ジャズミュージシャンを地で行くような人生だが、そのような暗さや屈折を感じさせない朗らかなアルバム。

「バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所」を観る2018年05月09日 00:17

 「バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所」を観る。

 イギリスからイタリアにスカウトされた音響エンジニア。担当する映画は、乗馬の話という触れ込みだったが、その実は魔女もののホラー映画。というより、どうやらスナッフ映画に近いような、グロ系ホラーらしい。

 というのも、製作中の映画はオープニングしか登場せず、ひたすら残酷シーンはアテレコやSEの制作場面で暗示されている。スタジオではスイカを叩き潰し、キャベツをナイフで突きまくりと、絵面は風変わりなキッチンなのだ。だが、その音がグロ映画を暗示させてしまう。なまじグロ映像を見せつけられるより、観客の頭の中にあるグロい殺戮シーンを引きずり出してしまうのだからタチが悪い。

 この映画スタッフもかなりグダグダらしく、プロデューサーは芸術をひけらかすばかりのただの暴君、監督は女優をものにすることばかりを考え、経理は仕事をまともにしようともせず、金払いも最低。おそらくは踏み倒す気まんまんという体たらく。こんな中で真面目なイギリス人レコーディング・エンジニアはしだいに心を蝕まれて…

 とまあ、絶対に一般受けはしない作品。終わりなき悪夢に引きずり込まれそうな作品なので、メンタルが疲労しているときにはパスするほうが無難。けっしてお茶の間で家族と観てはいけない。

「フィフス・エレメント」を観る2018年05月17日 00:30

 リュック・ベッソンの「フィフス・エレメント」を観る。

 ずいぶん久しぶりに観た。いい意味で「おバカ」そのものの映画だ。テイストはB級映画といった感じ。ブルース・ウィルスは口うるさいママの電話攻撃に辟易する、離婚歴ありのもとエリート退役軍人。一方、ヒロインはミラ・ジョヴォヴィッチ。エキセントリックな上に、ナイーブでどこか吹っ飛んでいる役どころ。

 ほかの登場人物もみんな、どこか間が抜けていて、到底シリアスな作品とは言えない。だからといってSFXやアクション、ビジュアルはきっちり。キッチュというか、ナンセンスというか。

 少々ご都合主義がきつい、ワンポイントギャグ満載の「セカイ系」アニメを、本気になって作ったらこういう作品が出来上がるだろう。妙に真面目ぶったりシリアスぶったりせず、豪快にハイスピードでぶっちぎる。そう、よくできた少年漫画のテイストそのものだ。あっさりヌードになろうとするジョヴォヴィッチに対する男性キャラクターの反応が、これまた実に少年漫画っぽくお上品。

 フランス人の感性は、日本のサブカルとかなり近いような気がする。こういう「おバカ」に大枚つぎ込んで、「おバカ」そのものを映像化してしまう、そういう遊び心が潔くてよい。

 この映画に付き合いきれない時は、きっと遊び心が枯れてしまった時だろう。そういう時こそ人間要注意だ。笑って、ドキドキハラハラして、最後にニヤッとする。後には何も残らないが、時間を無駄にしたという気持ちも残らない。遊びの映画、いいなと思う。

スポーツのカリスマ指導者2018年05月18日 23:17

 スポーツは戦争のアナロジーだ。

 あくまで「遊び」であることで、はじめてスポーツは戦争と明確に分断される。だが、その本質には殺戮の影があることは言うまでもない。殺す、盗む、出し抜く…ルールに支配された遊びでなければ、決して許されないことのオンパレードだ。プロスポーツは選手の生活の糧であって遊びではないという声も聞こえてきそうだが、プロスポーツは観客に対してエンタテインメントを提供することが目的であり、その意味ではショーなので、当然遊び要素や「遊びではない」という演出(つまりフリだ。プロレスの血糊などが典型)が不可欠だ。もっとも古代ローマ以来、流血と殺戮を好む観客は存在しているが…。

 アマチュアスポーツは、当然「ショー」ではないし、それで生計を立てていないからこそ「アマチュア」と言える。だからあくまで「遊び」でなければならない。遊びに現世的な権力や富が流れこむのはどう考えても野暮であり、本質を逸脱している。

 ところが、指導者ということになると話は違う。指導者は指導することで生計を立てている。完全ボランティア指導者もいるのだろうが、強豪と呼ばれるスポーツ集団の指導者ともなれば、完全ボランティアというわけにもゆくまい。そしてそういう指導者には「勝つ」ことのみが求められる。

 つまり、「遊び」ではなく、「勝つ」ことが優先される。この瞬間、スポーツはその原点である「殺戮」にすり替わる。

 「勝つ」ことを最優先に据えれば、当然「殺戮」が表面化する。いかにルールに則っているかのごとく見せかけながら敵を「殺戮」するか。見かけはどうあれ、「殺戮」が目的化しているのだから、普段の思考や言動もそれに影響される。暴力的支配、恐怖政治、弾圧、圧政、プチ独裁国家の出来上がりだ。そして独裁権力に指導者が溺れ果て、最後の一線も忘れはてる時が必ずやってくる。かくして事件は起こる。

 いい加減「遊び人の大将」を持ち上げるのはやめたらどうだろう。
 「遊び」の価値を正しく認め、「遊び」が「殺戮」に先祖返りする危険性を肝に銘じておくべきではないのか。

 だが、世はオリンピックに血道を上げ始めている。アマチュアスポーツが「国威発揚」という現世の利益と結びつくとき、どのような「殺戮」が起きるのだろうか…我々はすでにその恐ろしさ、おぞましさを知っている。