短波放送2022年03月07日 20:45

 今のように世情が騒然としている時、ネットが普及する以前の冷戦時代なら、短波放送が生の情報にアクセスする一つの方法だった。

 日本語放送もそこそこ行われていたし、頑張れば英語ぐらいなら、内容の概略ぐらいならなんとかぼんやりとでも聞き取れた。

 イデオロギー対立が盛んだった時代は、ジャミング合戦などもあって、逆に国家間の緊張関係がはっきりわかったりすることもあった。

 いま、短波放送を受信できるラジオのチューニングをいじっても、もう昔のように百花繚乱の放送局には出会えない。規模も予算も大きい割に、情報伝達としては不安定要素が多い(だから受信すること自体が趣味として成立していた)短波放送は縮小の一途。ラジオはネットラジオに切り替わっている。

 便利だし、確実に情報が伝達できるという面ではネットラジオ化はまっとうな変化だ。だが、聞く方も送る方も苦労しながら歩み寄る、そんな短波放送の楽しみは残念ながら失われつつあるようだ。

昔はものを…2022年03月08日 21:40

 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり

 百人一首にも取られている、藤原敦忠の歌。

 本当はかなり色っぽい歌だ(「逢ふ」という言葉の意味を調べるとわかる)。

 しかし、これを色っぽい歌と考えなかったら…「逢ひ見」たのが今の現実のことだったとしたら…

 下の句はますます重い意味になる。

「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を観る2022年03月09日 18:04

 「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を観る。1968年アメリカ、ジョージ・A・ロメロ監督作品。

 言わずとしれた「モダン・ゾンビ」映画の嚆矢。前編モノクロのドキュメンタリータッチで進行する。もうそれだけで怪しげなムードである。カラーを選択しなかったのは正解だろう。もしカラーなら、低予算で今からすればチープなところがあらわになって、作品の力をそいでしまったかもしれない。

 型破りな作品とも言えるだろう。1968年と言えば、まだまだ人種差別が激しかった時代に、主人公は黒人青年。しかも行動的で冷静、理知的である。これだけでも当時のアメリカでは衝撃的な設定だろう(ちなみに、USSエンタープライズのブリッジに若い黒人女性が士官として搭乗したのは1966年。これも当時は大きなインパクトがあった)。

 ヒロインはほぼ全編錯乱。白人中年男性は頑固でビビリ。ゾンビから逃れて立てこもった家の中では人間同士がいざこざで揉めている。白人青年は勇気ある行動をとるが、彼女が結果的に足を引っ張ってしまう。

 そんなドタバタの人間を取り囲むのはゾンビの集団。数もどんどん増え、最後にはなぜか全裸の若い女性ゾンビ(後ろ姿だけだが)まで。現代の我々にはお約束であるゾンビの属性もこの作品で確立しているので、リアルタイムで見ていた観客にはサプライズシーンも。現代人は予測可能なネタだが、だからこそ返ってハラハラさせられるなど、ホラーの基本に忠実で、びっくり箱映画にはなっていない。

 ラスト近く、ヒッチコックのあの有名な映画のシーンのオマージュのようなシーンもあるなど、乾いたユーモアも散りばめてある。そして、ラスト。当時のアメリカの(それは今でもあまり変わっていないかもしれない)社会の暗部を暗示するかのような結末。

 一段低く見られることもあるホラー映画だが、これは十分古典として成立している。60年代アメリカの社会を念頭に置いて観ると、また違った重さのある映画。

昔のものごとは…2022年03月10日 21:51

 昔のものごとは…全部間違いだ。

 そう思っていたほうがいいのではないかと最近思うようになった。

 間違っていない昔のものごとは、今でも現役であって、昔のものごとではない。今現在のものごとだ。今現在「昔」になっているものは、どこか今の時代では機能しないエラーを持っている。それを「よかった」と懐かしむのは、実は現在にアップデートできず、間違ったままであぐらをかきたい連中のたわごとではないか。

 世界が大きく、それも早く変わっていくこの時代には、それぐらいの厳しさがないと対応できないのではないだろうか。

 そんなことを言うと、「じゃあ、今のものがすべていいというのか」と逆ねじを食わせる人もいるだろう。だが、残念ながらそのとおりだ。そして、「今」は必ず「昔」に変わる。「今」良かったものも「明日」には間違いに変わってしまう。

 確かなものとは、寄りかかってあぐらをかくためのよりどころ。そんなものなど、これまであったはずはない。自然界を見ればわかる。気象が「異常」なのではない。「正常」な自然など、人間の勝手な想像が作ったものだ。たかだか100年程度のデータとせいぜい50〜60年程度の人間の直接体験記憶で自然の「正常」など、測れるはずもない。

 伝統も常に「今」を取り入れるから成立している。狂言は「シン・ゴジラ」の動きを産み、歌舞伎は「ワンピース」を演目に入れる。茶道も死に水取りから行儀作法にそのスタンスを変えた。

 いつまでも変わらないのは、田舎のオヤジ政治家か?昨今の報道で取り上げられる彼らの所業や発言は、ただただ「ぶざま」の一言に尽きる。わがままを自由と履き違え、男尊女卑が染み付いて、自分が骨の髄までそれに犯されていることすら気づかない。

 いや、田舎に限定するのは間違いだ。かつての国家元首にもそういう御仁がいたっけ。

久々のピュアオーディオ2022年03月11日 21:08

 久々にピュアオーディオのシステムで音楽を聴いた。

 たいていメインシステムではなく、PCと同じデスクにあるミニオーディオシステムでしか音楽を聴く機会がなく、さもなければTVの音声という具合だった。

 やはりピュアオーディオのシステムでの音楽再生は空気感が違う。音楽と一緒に音楽を演奏する場所の空気もしっかり伝わってくる。もちろん、サラウンドシステムではなく、最高級というシステムでもないのだが、やはりこの再生音は別物だとつくづく思う。