校則の見直し2022年01月08日 14:34

 全国で「校則の見直し」が進んでいるらしい。

 黒直毛以外の頭髪はまっとうな生徒と認めないが如き「自毛証明」だの「くせ毛申請」だのは、たしかに時代錯誤も甚だしい。服装にしてもしかり。もともと「家庭の経済状態の差が顕著にならないため」の制服であったにもかかわらず、学校独自制服によってコストは跳ね上がり、学校間での「家庭の経済状態の差」が可視化されている。得点力の高い生徒が集まる学校ほど高額な制服になりがちなのも、家庭の経済状態が学力と相関しているという、経済力を起因とした学力格差、つまり経済格差社会を浮き彫りにしているわけで、もはや制服の存在意義は崩壊し、格差アイコンと化している。着こなしにしても、児童・生徒世代に「おしゃれ」を売り込みながら、学校では「おしゃれ」の制限を要求する社会は二重思考社会そのもの。まさに「1984」が描き出したディストピア社会ではないか。

 学校がエビデンスベースで校則を規定していると考えること自体も疑問だ。だいたい「服装が悪い」だの「態度が悪い」だのという通報は地域社会から学校に「抗議」としてもたらされる。それに対応するために学校側が「校則」を規定しているケースは多いのではないか(虞犯行為はこの限りではないが、学校が責任を負う根拠はない。むしろ保護者の監督責任の問題)。要は地域社会や進学・就職先にたいする学校側の「忖度」が校則の根拠の多くを占めているように思える。「忖度」が底なしの闇の温床となるのは、我々にとっては記憶に新しいことではないか(モリカケも最近聞かなくなったので、そうでもないか…)。その結果の「ブラック労働」が教員の心身を蝕んでいるのも周知の事実。

 「生徒・学生らしく」というあやふやな基準にもエビデンスがあるとは考えにくい。突き詰めていけばノスタルジーや「自分も厳しく指導されたから、当然だ」といった報復原理が顔を出し、最後は単なるバッシングとなってしまいがちだ。求めたい生徒・学生のありようを社会が提示し、共有し、社会の変化に応じで頻繁に修正する必要がある。LGBTQの問題や他国籍・他民族との共生が求められる現在、昭和の頃の「規則」の多くは有名無実だ。

 地域社会も児童・生徒を勝手な理想と古臭いノスタルジーで縛るのはやめるべきだろう。自分が変化を否定しておいて、他人に勝手に自己の夢幻を押し付けるのは、身勝手極まりない。ノスタルジーは不寛容の温床となり、多様性を排除し、社会を衰退と破壊に導く恐ろしさを持っていることに、もっと年長者は自覚的でなければならない。年を取れば取るほど、変化に対応する努力を怠るべきではない。民主主義は年長者には厳しいが、それから逃げると「忖度」まみれの恐怖社会が待っている。死ぬまで勉強し、変化し続けないと、自由な社会は維持できない。「ぶれる」ことを「ぶれず」に受け入れる度量こそ、年長者の「老獪」さだろう。

 校則の見直しは、学校と児童・生徒の問題ではない。それを取り巻く社会全体の「不寛容」と「根拠なき幻想」の問題だ。生徒が「校則の見直し」を提言しているというのは本質論ではない。新しい世代が、旧弊な社会の機能不全を指摘していると捉えるべきだ。