「教育虐待」を読む2023年08月11日 16:18

 石井光太著「教育虐待 子供を壊す『教育熱心』な親たち」を読む。

 ハヤカワ新書の第一期の6冊の中で、もっとも硬派な一冊ではないだろうか。国語教育から無視され続ける早川書房から、これほど直球勝負の新書が出たことに、矜持のようなものも感じてしまう。

 暴力によって子供に教育を強制する。椅子に縛り付けて勉強させるなどという話は私も実際にそういう経験をした人から直接聞いたことがある。国立大を卒業し、公務員として働いているその人物は、縛られてまで勉強を強要されたことを「今にして思えばありがたい」と語った。それを聞いて言い知れぬおぞましさを感じたのを今でも忘れられない。

 罵倒・暴言・挙句には刃物での脅迫、もうここまでくれば犯罪そのものだが、虐待している本人は自分も同じようにされたのだと言う。社会的成功者はそのような虐待が自分を成功させたのだと勘違い(その結果IT敗戦を引き起こしているのだが)し、社会的に成功していないと考えている者は、自分の失った成功を子供に求める。「お前のためだ」と言いながら、実は自分の願望を充足させているという側面には気づかない。その結果うまくいったと思われている偶像がこの国にはスポーツの世界で存在している。そう、「星一徹」である。日本の戦後の野球文化、スポーツ文化ががこの与太話に大きく影響されていることは言うまでもない(女子スポーツはもっと露骨で、「だまって俺について来い」と強権をふるい、結果が出たからといって自分が巨大な権力を持っていると勘違いして晩節を汚すことになった人物もいた)。

 学校でも「国公立大に何人合格させた」「東京大学に何人合格させた」などとふざけたことを言う連中が多い。受験会場にいって答案用紙に正解を書くのは受験生であって、いくらそれまでに教育していようが、合格するのは受験生であって、教員ではない。また、そういう風潮を毎年煽る週刊誌もある。炎天下で拷問のような環境での野球を主催するのも、教育問題に取り組むと標榜しながらも、その問題や歪みの根底である学歴社会を増長させているのも、どこかで聞いたことのある新聞社であり、民法TVのキー局である。

 親と子がそれぞれ現実とは違うバラバラの妄想をみつめ、視線すら合わせることなく過ごす家庭。すでに「人」の集団ですらない。そこにあるのは記号に過ぎず、記号である以上、自分に都合のよい使い方ができなければ排除する。そして力のある記号は力のない記号を圧倒する。「悪貨は良貨を駆逐する」そのものだ。

 全編、慎重に論を勧めながら、上記のような寒々しい現実が見えてくる。もう一度、記号ではなく「人」を見る家庭が本当に必要なのだろう。「人権」という記号ではなく、その根底にある「人」を見ること。それなくしてはあらゆる記号は刃になってしまう。

 エピローグにある
  ―私を見てほしかった。
  ―認めてほしかった。
  ―褒めてほしかった。

この言葉は、重い。自分の都合のよい記号ではない「人」としての子供を見ること、認めること、そして褒めること。薄っぺらい単一価値観しかない人間にはこれほど困難なことはない。そして、それができる力こそが本当の「学力」なのだろう。そのためには「自己否定」「自己破壊」「自己再生」「自己創造」の覚悟が要る。