核抑止力 ― 2023年08月06日 16:17
「世界中の指導者は、核抑止論が破綻しているということを直視するべきだ。」
たしかにそのとおり。現にロシアも北朝鮮も、露骨に核をちらつかせて戦争や独裁体制を推進している。
核抑止論の根底にあるのは、「核兵器に対する恐れと怒り」だ。能天気にきせかえ人形の実写コメディ映画とオッペンハイマーの伝記映画を「儲かるから」とノリでくっつけて遊ぶような連中に、核抑止論など通用するはずがない。以前述べたとおり、キャメロン以降のハリウッド映画の核の扱いを見るにつけ、すでにアメリカ一般大衆に核抑止論は通用しないのではないかと感じてしまう。金こそすべての資本主義という理屈でできた社会に、現実は無意味だ。
ロシアに至っては、全く希望が持てない。ウラルの核惨事もカティンの森も、国によって隠蔽してきた歴史をもう一度蒸し返したいという現ロシア政権にとって、「核」についての認識は薄ければ薄いほど都合がよい。理屈でできた国に、現実は無意味だ。
その意味で、理屈と過去の栄光にしがみつくことで権力を維持しようとするポピュリズムに、核抑止力という現実は消化しきれない。被爆国である日本ですら、被爆の現実を消化しきれない頭でっかちの理屈屋が跋扈し、そういう連中が「勝ち組」と称している。そういう危険性を、IT敗戦程度で踏みとどまっているうちに早く抜け出さなければ。
もっともっと、「核は脅威だ」ということを伝えなければ。「シン・ゴジラ」は日本以外では大コケしたというが、その時点で(というより、初代「ゴジラ」がアメリカで完膚なきまでにゲテモノ映画に改変されたという事実からして)、もっともっと日本に、世界に、「核」の現実を伝えなければ。
高校野球と熱中症 ― 2023年08月07日 21:19
以前にも記したとおり、高校野球は死ぬほど嫌いだ。
このクソ暑い中、アラートまで出ている炎天下で、日陰すらないむき出しの場所で駆けずり回っていては、まともに過ごせるはずもない。それに耐える体を鍛えるのが野球というのなら、その果てにはなにが期待されているのだろうか。炎天下のジャングルを延々と装備を持って行進させでもしたいのか。根性だ、鍛錬だと言い募る連中の妄想たるや、恐ろしい。
選手が熱中症の症状を起こすのは当たり前だ。起こさないほうがよほど幸運。生命に関わらなかったのはそれこそ奇跡だ。選手ならダウンしても注目を集めるが、スタンドの観客に至ってはおそらく数にも数えないのだろう。「愛校心」だのなんだのをダシに引きずり出される生徒やブラスバンド、応援団やチアリーディングの生徒にとっては災難以外の何物でもない。現実は人間の妄想を遥かに上回るのだ。「根性」だの「鍛錬」だのという妄想など、自然は鼻で笑っている。自然にとって人間は栄えようが滅びようがお構いなしだ。人間は妄想に憑かれて勝手に自滅の道を走ってしまう。
一番かんたんな解決法は、熱中症アラートが出たら、試合は中止、大会そのものも中止とすることだ。甲子園を目指して頑張った生徒が可愛そうだなどとふざけたことを言ってはいけない。生き延びてこその教育だろう。若者を生かすのは大人の責任だ。自然の前では人間は無力。スポーツだろうが何だろうが、自然の驚異には勝てない。それを教えるのも大切な教育だろう。悔しかろうが、泣こうが、自然に対する人間の力には限界があり、自然は人間にとって理不尽な存在なのだということを教えるべきだろう。
それが教え込まれていないからこそ、自然をナメたスポーツ指導がまかり通る。その結果失われた命がどれほどあるか。失われた健康や人生がどれほどあるか。現実を直視する能力のない妄想に囚われたシステムである以上、私はスポーツ界を一切信用できない。
「原爆下のアメリカ」を観る ― 2023年08月08日 20:50
「原爆下のアメリカ」を観る。原題は "Invasion U.S.A."、1952年のアメリカ映画。
マッカーシズムの渦中に作られたB級映画となれば、ガチガチの反共プロパガンダ映画となるのも当然。プロパガンダ映画の金字塔といえばあの有名な「カサブランカ」だが、あれは恋愛映画としてもハードボイルドとダンディズムの世界を描いた作品としてもサマになっている。こちらは如何せん、お粗末としか言いようがない。
とにかく原爆を落としまくりだ。アメリカにも十数発、敵国(おそらく共産圏)には報復にそれ以上。放射能汚染についてはセリフ一言。核兵器をナメてかかっているにもほどがある。ニューヨークも核攻撃を受けるという設定だが、通常爆弾よりもチャチな破壊。
とはいえ、技術的な問題はあったのかもしれない。初代ゴジラが東京をさまよい歩き、破壊の限りを尽くしたのは2年後の1954年。我々はゴジラ上陸後の東京の惨禍が東京大空襲やヒロシマ・ナガサキの惨状を彷彿とさせる、リアルと地続きのものであることを感じているが、この作品の中にもある通り、100年以上本土を他国が攻撃したことがなかったアメリカ(真珠湾はハワイ島。本土への敵性勢力の攻撃は9.11が初)に、本土破壊の映像のリアリティは当時はあの程度にすぎなかったのだろう。
キューバ危機よりも前、核に対する認識はとてつもなく甘かったことがよく判る。核の恐怖より共産圏による社会秩序の破壊のほうが怖かった、その恐怖から力で目を背けようとしていたアメリカの空気が伝わってくる。そして、自国が使用した核兵器が生み出した惨状を(未だに)自国民にきちんと伝えようとしないアメリカの暗部も見えてくる。情報操作でロシアを指弾するどころではなさそうだ(もちろん指弾はしなくてはならないが、同時に自身も指弾しなくては)。
オチに至っては脱力モノ。SF映画のカテゴリに入れる風潮もあるようだが、あのオチではとてもSFとは言えない。しかし、アメリカ人がこの作品のようなプロパガンダを未だに引きずっているのではないかと不安にもなる。
戦争について考える ― 2023年08月09日 15:29
この国で8月は戦争について考える時期だ。
戦争にはいろんな理屈がへばりついて、当事者たちの正当性を立証しようとする。正義のため、国家のため、市民の安全のため…まあ、いろいろだ。
戦争は相手がいないとできないし、逆に自分が嫌でも相手が仕掛ければしないわけにはいかなくなる。喧嘩を売るのは論外だが、売られた喧嘩も買わなければならなくなることが多い。
戦争では自分を正当化するために、大なり小なり必ず情報が操作される。
そして、戦場では机上の理論やモラルなど通用しない。戦場では生きるか死ぬか、殺すか殺されるかしかない。お互いに共通の価値観で厭戦気運で戦うなどという理想的な戦場など、まずありえない。人間が多ければそれぞれの欲望が渦巻き、殺人というタブーを国家が取り外してしまえば(そうしないと戦争は遂行できない)、もうモラルにも歯止めが聞かない。自分はモラルを持って戦争したと言ったところで、敵も味方も一人ではありえない。モラルの崩壊は一人でも起こせば雪崩式に起きる。
かくして、戦争の本質は破壊・殺戮・略奪・陵辱以外にはないということになる。
こんなもの、やっていいわけがない。仕掛けるのは論外。仕掛けられたらいかに早急にやめるかを必死になって考えなければならない。とはいえ、仕掛けた側がやめたくないと言えばどうしようもないことも事実。かくして戦争の泥沼化は人間性の崩壊と直結する。
相手を叩きのめしたいというのは、相手が怖くて仕方がないが、それを認めるのが嫌だというときに顕著に起きる反応ではないか。相手が怖いのは、相手を理解する努力を怠るか、理解する能力に欠けているかのいずれかだろう。相手を理解するということは、学ぶこと。自分を変えること。コンサバティブなスタンスで自分の保身を考えるようでは、恐怖を克服できない。自分の権力が崩壊するのが怖くて仕方がない連中はたくさん世界にいるようだ(たいていそういった場合、先代の権力者は生命の危険にさらされていることが多い)。このへんは国家間の問題に限らない。家庭に居場所がなくなって、仕事にかまけて家庭での日常生活スキルが皆無のまま、空虚なプライドにしがみついてカスハラに走るオヤジなどもこの一派だ。こういう連中に甘言を弄して取り入り、集票するような政治家が現れれば、恐ろしいことこの上ない。こういう風潮が広く広まれば、戦争への道はぐっと近づいてくる。
死ぬまで学ぶ。他者を理解する努力を惜しまない。変化に背を向けて先例主義に安住しない。一人ひとりのこの心がけが、戦争をなくす小さな、小さな一歩になるのではないか。
部活動後の保護者送迎 ― 2023年08月10日 22:14
山形県で、部活動後の下校中の生徒が熱中症で倒れて亡くなったことを受けて、部活動後は保護者らが部活動後の生徒送迎を依頼することを検討するという。
悪いことではないのだが、根本的な解決には絶対にならないだろう。
熱中症の危険がわずかでもあるのなら、部活動そのものを完全に中止するという選択肢がなぜないのか。送迎以前にそちらの方を考えるのが先決だろう。
部活動ありき(それも殆どはスポーツ関連だ)という発想そのものが危険極まりないということに目をつぶっていることのほうが問題だ。甲子園などというブランドにへばりつくのをやめて冷房のあるドーム球場に会場を移すことすらしようとしない野球といい、自然の恐ろしさをナメてかかっているとしか思えない(阪神に「死のロード」を強いているのだから、これはプロ野球にとっても相当理不尽な前例踏襲だ)。
子供に体を動かす機会を与えるなどというが、体を動かしてはならない自然環境である以上、そんな理屈が通用するはずもない。命を削ってまで体を動かさせるのでは、戦場に送り込まれる兵士と何ら変わりがない。
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